【ブラタモリ】浜松を世界的な楽器の町にした立役者・山葉寅楠

2020年1月25日放送「ブラタモリ」は「浜松~なぜ浜松が楽器の町になった♪~」です。

皆さんは「静岡県浜松市」と聞いて、思い浮かべるのは何でしょう?

私は「ウナギ」でした。

静岡県浜松市にある「浜名湖」はウナギの養殖が盛んで、浜松のお土産に「うなぎパイ」を買ったことがある人もいるのではないでしょうか。

そこで今回は、浜松市の「ウナギ」について調べ・・・てはなく、「楽器」についてです。

浜松市は世界的な楽器生産地でもあります。

ヤマハ、カワイ、ローランドなど世界的な有名楽器メーカーや、200社以上の楽器関連企業が集まっており、ピアノ、電子オルガン、電子ピアノ、管楽器、ギター、ハーモニカなど様々な楽器が浜松で生産されています。

浜松を世界的な楽器の町にした立役者と言えば、日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の創業者・山葉寅楠(やまはくすとら)です。

そこで今回は、浜松を世界的な楽器の町にした立役者・山葉寅楠について調べてみました。

浜松市てどこ?

浜松市は静岡県の沿岸部にある、人口 79.8万人(2015年)の政令指定都市です。静岡県の最大の都市であり、日本で二番目の面積を有します。

戦国時代には浜松城の城下町、江戸時代には東海道の宿場町として栄えました。

徳川家康公が29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごし、浜松城は後に出世城として有名になりました。

東海地方でも有数の工業都市であり、遠州地域における経済・文化・観光の中心となっています。

山葉寅楠の歴史年表

引用先:Wikipedia

1851年、嘉永4年4月20日に紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部)の下級武士・山葉孝之助の三男として生まれます。

幼いころから機械いじりが得意だったそうです。

1867年、16歳の時には剣術修行に出て、腕を磨いていました。大和の小野派一刀流の使い手で、二刀流にも造詣があったとか・・・パねぇ(;・∀・)

しかし、17歳の時に武士を棄て、親元を離れ、大阪で時計商の徒弟になります。元々機械いじりが得意でしたので、剣士ではなく職人の道を目指すことに。

そこで、懐中時計に魅了され、自分で作ってみたいと考えるようになりました。

1871年、明治維新後のこの年、時計の製造技術を学ぶために長崎に移住し、イギリス人の時計技師から製造技術を学びます。

大阪に戻って時計作りの事業計画を立てるも、資金不足のためにあえなく断念。代わりに大和高田で時計商の店を開業するが、こちらもなかなか軌道に乗りません。

結局、大阪の医療器具店に勤め、医療器具の修理工として働きます。

1884年、医療器具店の浜松支店に駐在していましたが、医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理などを請け負うようになります。

1887年、山葉寅楠に人生の転機が訪れます。

浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)でアメリカ製オルガンの修理を、偶然手がけたことから、その構造を学びます。

まぁ、正確には修理自体はさほど難しくはなかったそうですが、山葉寅楠はすぐに直そうとはせず、

一度すべてを分解してみれば、自分でもオルガンを作れるのでは(゚∀゚)!?

と思い立ち、オルガンを隅々まで分解(-_-;)

詳細な設計図を描いて、元通りに組み立て直して言った一言が、

自分なら、この程度のものは3円もあれば作れる(`・ω・´)ノ!!

当時、オルガンの価格は45円。現在の価値に直すと4500万円と大変高価なものでした。日本にはオルガンを製造する技術はなく、すべてアメリカ製から輸入をしていたからですね。

しかし、試作品を作るための資金がありませんでした。そんな中、飾り職人・小杉屋の河合喜三郎らの資金援助を得られることになります。

試行錯誤の結果、試作品が完成します。

山葉寅楠と河合喜三郎は浜松から東京まで、250㎞余りの道を100㎏近いオルガンを担いで、東京音楽学校(現東京芸術大学)の校長・伊沢修二に審査してもらいますが、調律が出来ていなかったため、結果は不合格。

それもそのはず、山葉寅楠らは音楽の知識が無かったのです。

その後、調律や音楽理論について学び、再び試作品を伊沢修二に審査してもらい、合格!!

1888年、ついにオルガンの製造に成功します。日本初の本格的オルガンの誕生です。

伊沢修二校長の口コミもあり、全国各地から次々と注文が入ってくるようになります。

1889年、合資会社山葉風琴製造所を設立。ちなみに、「風琴」とは「オルガン」のことです。

この時、「河合小市(かわいこいち)」という、機械いじりの天才として評判だった11歳の少年が山葉寅楠の元に弟子入りしています。

実はこの少年・河合小市は後に「日本の楽器王」と呼ばれた河合楽器研究所(現在の河合楽器製作所)の創設者です。

引用先:hamamatsu-daisuki.net

楽器作りの天才同士の運命的な出会いですね。

1891年、山葉風琴製造所は残念ながら解散します。順調だった山葉寅楠を快く思わなかった出資者の一人が、解散を画策したそうです。

いつの時代も成功者の足を引っ張る人はいるものです。

しかし、そこで諦める山葉寅楠ではありませんでした。河合小市らと共に、「山葉楽器製造所」を設立。

1897年、資本金10万円で日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)に改組し、初代社長に就任したのです。

1899年、山葉寅楠はキンボールやメイソン&ハムリン、スタインウエイ&サンズなどを視察のため5ヶ月間渡米をしています。

1900年、アメリカ視察で買い付けた加工機械を用いて、国産第1号といわれるアップライトピアノを製作します。

ピアノ製造が始まった当初は、その複雑な構造から生産台数がのびず、利益も上がりませんでしたが、徐々に増え、生産数も拡大します。

1902年、緑綬褒章を受章。浜松鉄道(後の遠州鉄道奥山線)の取締役も務めます。

1911年、浜松市会議員当選、浜松市会副議長に就任。

1912年、順調だったピアノ製造に陰りが見え始めます。

この年、明治天皇が崩御すると、喪に服する意味で歌舞音曲が1年間禁止となります。さらに大正初期の経済不況で逆風に立つことに。

すでに拡大路線をとっていたため一気に業績が悪化し、山葉寅楠はその責任をとって身を引きます。

その後、紆余曲折はありましたが、日本楽器製造株式会社は日本を代表する楽器メーカーとして成長していきます。

1916年8月8日、山葉寅楠死去。享年66歳でした。

まとめ

今回は、浜松を世界的な楽器の町にした立役者・山葉寅楠について調べてみました。

山葉寅楠の歴史を紐解くと、彼の探求心と諦めない精神が浜松を世界的な楽器の町にしたのでしょう。

浜松市に訪れた際は、山葉寅楠の軌跡を辿ってみるのもいかがでしょうか?

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